マイ・ストーリー ![]()
★わたしがネパールでペンションを始めるまでのお話し・・・。
まさかこんな展開になるとは、「現実は想像より・・・」ですね!
「がいこくに住みたいなぁ」・・・子供のころからの口ぐせ・・・。
漠然とした夢・・・、どこの国か、どんなかたちで なんてことは考えていなかった。
とにかく 外国に行きたかった、大人になるにしたがってその思いはもっと強くなっていた。
きっかけ・・・
| 1998年、それまでわたしはグループで、個人で海外旅行を楽しんでいた。そしてどっぷり はまってしまった「インド」は、1人で3回訪れたが、そのどれも最高2週間、それも安全を 確保するため、ほとんど5スターホテルに泊まる、という贅沢旅行だった。 日本で、大げさに言えば「人生に行き詰まっていた」わたし。ちょっとした問題を抱え込んで すでにそう若くもなかった、でもまだまだ人生を諦めたくなかった。 知り合って1年そこそこ、お互いにプライベートな部分はまったく知らないもの同士、最初は
|
ネパールとの出会い・・・。
10月中旬。
初めてのネパール・カトマンズ。排気ガスのすごさにびっくりしたものの、すでにインド人
にちょっと疲れていたせいか、ネパール人の親切や、日本人に近い感覚にこころから癒さ
れた気がした。
映画館にいってネパール映画、ヒンディー映画を楽しみ、タメルのゲストハウス今は無き
「ミラージュ」を拠点に、勝手気ままに毎日を楽しんだ。初めて訪れたとは思えないほど
肌になじむネパールの空気。体の中で眠っていた「自分」がぐんぐん元気になってくるのを
感じた。自分らしくいられることが心地よかった。今まで旅行でいろんな国を訪れたが、
これほど落ち着く外国は初めてだった。「ネパールに来てよかったぁ!」と心そうから思った。
![]()
義弟との出会い・・・。
そんなネパールで、いつしかわたしの日常ができあがりつつあった。毎朝ゲストハウス
の隣のレストランで、チャとチーズトーストを食べたあと、ぶらぶらと歩いてダルバール
広場までいき、話しかけてくるネパリとたわいのない会話を楽しんだり、面白そうな店の
発掘に歩きまわったりして過ごした。ネパール滞在期間後半、わたしと友人は日中は
ほとんど別行動。インドは危険がいっぱいというかんじがしたけど、ネパールでなら大丈夫
でしょう、という判断のもと、夜だけ一緒にご飯を食べるくらいになっていた。
お互いのネパールを楽しんでいた。
ネパール滞在残すところあと2日という日、相変わらずわたしはダルバール広場で
ぼんやりと座りネパールのこと、あさってからのインドのことを考えていた。最初、
インド・デリーから陸続きで入り次はネパールからカルカッタに入って一気に南インドまで
というのが旅の計画だった。
相変わらずカタコトの日本語やわかりにくい英語で話し掛けてくるネパリにちょっと
うんざりしつつ、ハヌマン・ドカに場所を移して、「ネパールはどうして昼間っから
ブラブラしてる若者が多いんだろう?」「どんな政治がなされているんだろう?」
ネパール人はこの生活をどう思っているんだろう?」「ネパール人はどんな生活をして「
るんだろう?」 いろんな疑問と興味が湧き上がっていた。
「だれかに聞きたいな」 でもわたしはカタコトの英語しかできず、ここにいるネパリ
は難しい日本語は理解できないだろうし・・・・。 そんなとき、「あなたは 旅に慣れて
るひとですね」 義弟との出会いだった。 彼の日本語はとっても分かりやすく、
またわたしの話す日本語をすべて理解できたことも驚きだった。 いきなりぶつけ
出したわたしの質問にも、わかりやすく答えてくれた。むちゃくちゃな政治のこと、
失業率の高さ、十分ではない教育・・・。どれも初めてきくことばかりだった。
![]()
ネパールとの別れ・・・。
義弟ともうちとけてネパール最後の日を彼のガイドで締めくくろうとわたし達は
ゴダワリに出かけた。そのとき義弟から聞いた彼の厳しい現実、大好き
だった亡き母の思い出、酒に溺れ10年前に家を出た父への恨み、尊敬するお兄さん
(現在の夫・クマール)のこと、11歳離れた妹ソニカにこと、将来の夢や不安、
ネパールで生きていくことの大変さ・・・。 働きたくても仕事がない現実。日本人の
わたしには想像できない厳しい社会・・・。
「またネパールに来ますか?」 「・・・たぶん。今回はヒマラヤを見れなかったからね、次回
来るときはきっと!」という会話をしつつ、内心は「もうこんな自由きままな旅には来れないだ
ろうな・・。」と、密かにネパールに別れを告げていたわたし。日本に帰ったら本腰を入れての
生活大改革が待っている、と覚悟していたからだ。翌日、わたしと友人はインドへと旅立って
いった。心のどこかに 引っかかる何かを感じて・・・。
![]()
再度ネパールへ・・・。
1998年末、約2ヶ月半のインド・ネパール放浪を終え、わたし達はそろそろ日本に帰ろうとして
いた。が、年末の旅行シーズンということをすっかり忘れていた。デリーからの帰りのチケットが
取れない!!年始のシーズンが過ぎるまで待とう、ということになり、「どうせ滞在するんなら
ネパールのほうが安全だし、おもしろい」と意見が一致、国内線で再度ネパールに入ることになった。
思わぬネパール再訪だった。こんなに早くまたネパールに来ることになるとは夢にも思って
いなかった。
さっそく1人ダルバールへ足をはこんだ。 ネパールで知り合ったはじめての友達に会いに。
義弟とはすぐ再開できた。でも 彼は年末から1週間ガイドの仕事が入っていて忙しくく
カトマンズを離れるという。「もしあなたが1人で退屈だったら、お兄さんを紹介しますから、彼に
案内してもらってください」 クマールとの最初の出会いだった・・・。
![]()
クマールとの出会い・・・。
なんでもはっきり・行動派の義弟とは対照的に、クマールはおっとりして
なんともいえない安心感を感じさせてくれるひとだった。でもクマールは日本語
がまったく話せない。ガイド歴の長いクマールの英語は流暢だけど、わたしの
英語はカタコト。でもクマールがわたしにもわかるように、ゆっくりと話してくれた
ので、なんとか聞き取ることはできた。 「友達だからお金の心配はしない
で」と言われ、約2週間わたしとクマールはカトマンズのほとんどの場所を訪れ、
いろんなことを話し合った。結婚観、将来の夢、家庭観、夫婦観・・・・。
このときになるとわたしの英語も少し上達し、言いたいことを伝えることができる
ようになっていた。
ロマンスに溺れるほどお互いに若くなかった、現実を見つめたうえで、可能な夢を
追いかけたい、お互いに人生のよきパートナーを必要としていた、こんな共通の思いが、
わたし達2人の気持ちを一気に引き寄せたのか・・、「一緒に生きていこう!」という
思いは、自然にわたし達2人の間にうまれた決心だった。
![]()
始まった 現実・・・。
1999年 1月、帰国後すぐ両親に決心をうちあけ、大反対されるも自分の気持ちが
変わらないことを確認し、同年3月ネパール入り 一ヵ月半滞在。クマールと義弟が
これまでの貯金をはたいて土地を買ったと聞く。亡き母の夢だった、「兄弟で仲良く同じ
家に住むこと」 の一歩前進。 同年8月ネパール入り。クマールたちは義弟と妹ソニカ
と3人で、借家に住んでいたため、わたしは毎回安宿に滞在していたが、
ネパール生活を知るためには自分の家が必要!と実感。家を建てることを決心して帰国。
ネパールは物価が安い!とはいえ、家一軒建てるとなるとまとまったお金が必要になる。
でも どうせ建てるんなら「ゲスト・ハウス」にもできるようにと3階立ての家にしよう!と、
2000年1月、ネパール入りした際、設計図を依頼。いよいよわたし達のネパール生活が
具体的にかたちになってきた瞬間だった。
![]()
あまくない現実・・・。
わたしからネパールのことを聞かされた友人のほとんどは、わたしの話を信じ、励ましてくれた。
母もまた、心配しながらもいつもこころの支えになってくれた。うれしかった。ただ、
父だけは、ネパールのことには一言も触れようとはしなかった。理解してほしい・・。でもそれは
わたしの身勝手な願い・・。 そんな両親のためにわたしができることは、「幸せになること」
ただそれだけ・・。 それだけが両親を安心させるたったひとつの道・・・。
とにかくお金が必要だった。必死に働いた。朝から晩まで働いた。2000年2月帰国してから
15ヶ月間、日本にいるときがわたしにとって精神的に最もつらい時期だった。
疲れて弱気になったとき 「やっぱりわたしは騙されてるんじゃないだろうか?すごくバカな
ことをしてるんじゃないか?」と思ったこともあった。でも、従来の負けん気の強い性格が、
弱音を吐くことを許さなかった。苦しかった・・・。
わたしは彼らに人生のチャンスを与え、彼らはわたしに本気で生きることの意味を教えてくれた。
そう思うことでバランスをとろうとしていた。それでも納得できないときは直接電話で自分の
気持ちをぶつけた。
人の気持ちは変わるもの、好きなだけでは結婚は成り立たないこともよくわかってる。
でも、それでも自分をクマールを信じたい。この気持ちを信じていきたい・・・。
そんな思いの波に飲み込まれそうな、長く苦しい15ヶ月が過ぎ、家も2階まで完成し
なんとか住める状態になっていた。いよいよ本格的なネパールでの生活が始まろうと
していた。
![]()
まさかの事件・・・。 ←クリック
2001年6月2日、この日に合わせて仕事も辞め自分の部屋も片付け、持っていく
荷物も全部空港に送ったあとだった。1日の朝飛び込んできたニュース「ネパール国王
惨殺される」 信じられなかった。すぐクマールに電話した。大丈夫なのか?今どんな
状況なのか? まだ事件が起きたばかりでカトマンズはいつもと変わらないという返事。
飛行機が飛んでるんなら大丈夫だろうと、強引に決行。母は駅まで見送りにきてくれた。
涙がでてとまらなかった。父は「行って目を覚まして来い」と、一言いっただけだった・・・。
長い文章を読んでいただいてどうもありがとうございました!目が疲れたでしょ?
ちょっと休んでくださいね!
続きは こちら から!